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Tenrikyo Kada Church

​概  要

【布教所の設置】

天理教加太分教会は、1903年(明治36年)に奈良県宇陀郡榛原町(旧住所)出身の布教師、常極仁右衛門氏によって和歌山県海草郡加太町大字加太1409番地に加太布教所として設置。
 

【信仰の始まり】
1887年(明治20年)の頃、奈良県宇陀郡榛原町(旧住所)出身の常極仁右衛門氏は、和歌山に出て川魚を行商しながら布教をしていった。
その後、常極仁右衛門氏は同じ川雑魚屋をやっていた奈良県吉野郡川上村の亀岡権兵衛の子一郎氏と懇意になり、常極仁右衛門氏は亀岡一郎氏の姉あさの女と結婚をする。
当時柳町で風呂屋を営業していた玉井音吉氏が入信するや、同家の離れ座敷を借りて行商し、夏が来れば川原で鰻を焼いて商っていた。だんだん入信者が出来るようになり、梶本亀五郎、三木国松、橋本道教の諸氏が相次いで入信し、明治23年7月、市内広瀬通町に集談所を設けた。次いで明治25年5月30日、市内紺屋町2丁目5番地に集談所を移転し、同年11月、名草支教会設置のお許しをいただいた。
 道は次第に伸びて、県内各地に広まって行った。そして各地に布教所の設置を見るに至った。その中の一ヶ所として天理教加太布教所が設置されることとなった。
 常極仁右衛門氏は若い頃より体が弱く、明治38年頃には会長の職に堪えず、遂に職を辞し、夫婦して上級敷島大教会に引き上げ、明治40年3月5日出直した享年67才。
 (著:高野友治氏『天理教伝道史』より)

【歴代会長と教会の動き】
1907年(明治40年7月8日)常極仁右衛門氏出直し後、加太布教所長として義弟である亀岡一郎氏が後任する。
1909年(明治42年)亀岡一郎氏によって加太布教所を「天理教加太宣教所」と改称した。
1923年(大正12年8月27日)亀岡一郎氏出直しのため後任として酒井繁太郎氏が所長として任命され、ナヲ夫人と共に宣教所に入り込み布教に専念した。

同じ年「天理教加太宣教所」が「天理教加太分教会」へと名称を変更。
1946年(昭和21年4月27日)夫の出直しによりナヲ夫人が会長に就任。
1949年(昭和24年9月26日)酒井ナヲ氏出直しのため天羽みさお氏が会長に就任。
1962年(昭和37年6月26日)天羽みさお氏出直しのため左近聖一郎氏が会長に就任。
1976年(昭和51年6月26日)神殿移転建築が始まる。
和歌山市加太518番地に設置の「天理教加太分教会」を同加太2395番地に移転。
1979年(昭和54年11月9日)仮神殿にて移転建築落成奉告祭を勤める。

1993年(平成5年10月11日)長年の悲願であった神殿落成奉告祭を勤める。

1998年(平成10年8月26日)左近聖一郎氏の息子雅彦に会長を後任し、現在に至る。

【私達の歩み】
 この天理の教えは、1838年(天保9年10月26日)立教より遡ること九億九万九千九百九十九年前、この世がまだ泥海であった頃、親神様はその混沌たる様を味気なく思し召し、人間を造りその人間が陽気ぐらしをする様子を見て神も共に楽しみたいと思し召し、私達人間をお造り下されました。
  せかいぢういちれつわみなきよたいや
  たにんとゆうわさらにないぞや

  このもとをしりたるものハないのでな
  それが月日のざねんばかりや   

  高山にくらしているもたにそこに
  くらしているもをなしたまひ(し)い

               (おふでさき13号 43~45
 私達人間は皆兄弟姉妹です。立場の相違はあれども高い低いの差はないのです。ですから互いに立て合い、助け合って陽気に暮らすことが人間の生きる目的なのです。又その目的に近づけるよう日々努力をかさね、心の成人の道を歩むことが私達の信仰の道です。この教えを広く世界に知って頂けるように教会に繋がる信者と一手一つに歩んでいます。